建築家の新たな職能へ向けて/「HOUSE」なき「HOUSE VISION」
2013年3月,東京港に面した青海の特設会場にて「HOUSE VISION 2013 TOKYO EXIBITION」が開催された。水上の桟橋を思わせる会場に、7組の建築家,デザイナーが協賛企業と協同で建ちあげたパビリオンが並ぶ。
来場者は,メインの桟橋から枝分かれする細長い桟橋を渡り,それぞれのパビリオンへと至る。白いテントで覆われたパビリオンは,さながら港に係留された小舟といったところか。未来のVISIONに出会うべく,異界へ向かうにはうってつけの設えだ。そしてもう一つ,ここには「家」がない。正確には無印×坂茂「家具の家」が外観を保っているが,それとて会場の目に付かない場所に巧みに配され,外部を伴った住友林業×杉本博司「数寄の家」は帚を立ち並べた塀に隠されて,怪しい妖気を漂わせはするものの,その実在感は希薄である。
「HOUSE」なき「HOUSE VISION」。VISIONという言葉の意味するように,予見は海に浮かぶ幻影としてしか提示できないのか。隈研吾による会場構成は、展覧会が目指すところの可能性と困難さを充分に予感させるものであった。
作家性とファシリテーター
見えないものに形を与え,世に示すのがアーティストだとすれば,本展覧会に第一線の建築家やデザイナーが招聘されたのは当然の成り行きだったと思われる。予見に形を与えるのは,本来,強い作家性をもったアーティストにだけに許された仕事である。しかし,『「家」を多様な産業の交差点と位置づけ,そこから日本の新たな産業活性を招来しようと活動している』,とHOUSE VISION実行委員会の基本理念の冒頭に記されているとおり,ここは協賛企業の新技術,新商品のプロモーションの場でもある。
また,会場における「家」の不在が象徴的に示すように,建築家に求められる職能にも、大きな変化の兆しがあることは、言うまでもない。今や建築家は従来の作家ではなく,住空間に背景化したテクノロジーやプロダクトをマネージメントし,快適さを演出するファシリテーターへの変換が求められているのである。
テクノロジーと原点回帰
では,実際の会場はどう写ったのか。
LIXIL×伊東豊雄「住の先へ」の新たなテクノロジーと,伝統空間の再解釈による原点回帰的ともいえる傾向は,他のパビリオンにも見てとることができた。土間的な空間がグラデーショナルに開放されるHonda×藤本壮介「移動とエネルギーの家」,安定した相互扶助関係が成立していた過去の共同体を想起させる未来生活研究会×山本理顕,末光弘和,仲俊治「地域社会圏」,排泄行為と咽せ返るような濃い緑に,人の営みの生々しさを感じるTOTO・YKK AP×成瀬友梨・猪熊純「極上の間」,いずれもテクノロジーが原点回帰的な試みを支えている。
しかし,会場を一巡して得た印象が,おしなべて希薄であったことは否めない。パビリオン内部を,ジオラマのように眺めるしかない順路制限によるところもあろう。体感することを許されない空間からは発見性が失われる。しかしそれにも増して,会場全体の印象を決定づけていたのは,やはり建築家が作家性とファシリテーターとしての役割の狭間で逡巡してしまったように見えたことではなかったか。
建築家の新たな職能
その中で異彩を放っていたのは,蔦屋書店×東京R不動産「編集の家」であろう。第一線の企業が最新テクノロジーを引っさげて登場する中,あえて言わせてもらえば、「ガラクタ」を用いて,住空間を「自分で」編集することのリアリティーを提示し得たのは,そもそも彼らの地歩が作家性から一歩引いた場にあるからに他ならない。ジオラマ風の会場構成を逆手に取って,舞台裏を公開するような演出法は痛快ですらあった。
HOUSE VISIONの活動は,これからも継続されると聞いている。今後の展開を期待したいと思う。住宅の新しいVISIONと,建築家の新しい職能のあり方について,私たちも共に考えてゆかねばならない。
最後に、同業他社を含む多くの企業を一つに束ねたディレクター、原研哉の尽力と使命感に深い敬意を表す。
(「建築技術」2013年5月号)