ロウハウスと民主主義
2013年09月17日|ロウハウス研究|http://komada-archi.info/archives/1489
いまニューヨークから成田への機内にいます。ボストン・ビーコンヒルのロウハウスにおける、都市と建築の関係について、「接地の作法」という切り口で考えていると、前回のブログでお伝えしました。今回、幸いにも国の科研費が付いたこともあって、帰国後はこのテーマで早速論文の準備に入らなくてはなりません。
さて、ボストンの後は、フィラデルフィア、ニューヨークへ。フィラデルフィアが、博愛の街と呼ばれているのは、ご存知の通りです。だからという訳ではないのですが、フィラの街を歩いてみて、幾つかの点でロウハウスが、極めて民主主義的な建築だと感じました。一つは、全てのユニットが接地して通りに面していること。規模の大小に関係なく、同じ形式で建っているのがロウハウスです。そこにはユニットが縦に積層する集合住宅に必ず生まれる、上下のヒエラルキーがありません。ちなみに、ここ数年マンハッタンでは、超高層アパートが、大流行していて、セントラルパークを望める、最上層は1平方フィートあたり、300万円の値がついているとか。これもある意味、民主主義が生んだ、究極の住宅の在り方ではあるのですが。
もう一つはこの2枚の写真を見て頂きたい。全く別の建物に見えると思うのですが、実は同じロウハウスを表と裏から撮っています。表は街路に面して、ファサードが整えられ、裏はそれそれバラバラ。基本的に異なるオーナーがそれぞれのユニットを所有管理している中で、表通りに面する部分は個人の趣味や嗜好に合わせて改変されていません。法的な規制もさることながら、公共に対する自己抑制と、それを動機付ける社会規範が機能しているからこそ、表通りはその統一感と美観を保つことが可能になっている。一方、裏通りはと言うと、ここはまず住人しか使わない、元は馬小屋(ミュー)が並んでいた、一般に「ミューズ」と呼ばれる路地のような細い通りです。このミューズに面しては、各ユニットはそれぞれのオーナーの、時々の都合に応じて、バラバラの形で、増改修が繰り返され、全体として何の統一感もありません。
とかく民主主義の個人主義的な側面ばかりが、顕在化しやすい昨今ですが、ロウハウスでは、まず公共性が確実に担保された中で、個人それぞれの振る舞いが許容される。当たり前のことが、当たり前のように、200年も実践されているということでしょうか。〈TAK〉
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