ロウハウスと民主主義

いまニューヨークから成田への機内にいます。ボストン・ビーコンヒルのロウハウスにおける、都市と建築の関係について、「接地の作法」という切り口で考えていると、前回のブログでお伝えしました。今回、幸いにも国の科研費が付いたこともあって、帰国後はこのテーマで早速論文の準備に入らなくてはなりません。

さて、ボストンの後は、フィラデルフィア、ニューヨークへ。フィラデルフィアが、博愛の街と呼ばれているのは、ご存知の通りです。だからという訳ではないのですが、フィラの街を歩いてみて、幾つかの点でロウハウスが、極めて民主主義的な建築だと感じました。一つは、全てのユニットが接地して通りに面していること。規模の大小に関係なく、同じ形式で建っているのがロウハウスです。そこにはユニットが縦に積層する集合住宅に必ず生まれる、上下のヒエラルキーがありません。ちなみに、ここ数年マンハッタンでは、超高層アパートが、大流行していて、セントラルパークを望める、最上層は1平方フィートあたり、300万円の値がついているとか。これもある意味、民主主義が生んだ、究極の住宅の在り方ではあるのですが。



もう一つはこの2枚の写真を見て頂きたい。全く別の建物に見えると思うのですが、実は同じロウハウスを表と裏から撮っています。表は街路に面して、ファサードが整えられ、裏はそれそれバラバラ。基本的に異なるオーナーがそれぞれのユニットを所有管理している中で、表通りに面する部分は個人の趣味や嗜好に合わせて改変されていません。法的な規制もさることながら、公共に対する自己抑制と、それを動機付ける社会規範が機能しているからこそ、表通りはその統一感と美観を保つことが可能になっている。一方、裏通りはと言うと、ここはまず住人しか使わない、元は馬小屋(ミュー)が並んでいた、一般に「ミューズ」と呼ばれる路地のような細い通りです。このミューズに面しては、各ユニットはそれぞれのオーナーの、時々の都合に応じて、バラバラの形で、増改修が繰り返され、全体として何の統一感もありません。
とかく民主主義の個人主義的な側面ばかりが、顕在化しやすい昨今ですが、ロウハウスでは、まず公共性が確実に担保された中で、個人それぞれの振る舞いが許容される。当たり前のことが、当たり前のように、200年も実践されているということでしょうか。〈TAK〉

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ビーコンヒル

突然ですが、アメリカに来ています。成田を発って今日で4日目。最初の目的地ボストンからフィラデルフィアへ向かう飛行機の中でこのblogを書いています。
一昨年に続いて、東京工芸大学の市原先生、研究室の学生と一緒にボストン、フィラデルフィア、ニューヨークのロウハウスを見て廻ります。先生の御陰で、科研費を国から頂けることになり、私はボストンビーコンヒル地区のロウハウスについて論文を書くことに。テーマは「接地の作法」。ビーコンヒル地区のロウハウスの多くは、狭い街路と建物が直接接しているにもかかわらず、良好な都市空間を実現しています。一昨年の視察で直感的に思ったのは、どうやら建物の接地の仕方に特別な何かがあるのではないかということでした。ロウハウスの1階が街路面から少し高くなっているのは、ロウハウスの本国イギリスでもおなじみの形で、それによって、建物内部と外部の視線がずれ、プライバシーが守られる。街を歩く人は建物の窓の向こうを気にしなくてもすむ。しかし、それだけでは、ビーコンヒルの街並の豊かさを説明することは、全く出来ません。
ではそれは何なのか?私が着目したのは、建物の足元と歩道の関係でした。簡単に言えば、建物と歩道の境界面が、入組んでいるということ。私たちの常識では、歩道と建物の建つ敷地は、一本の境界線で仕切られています。しかし、ここでは建物の一部が、歩道に食込み、歩道の一部が建物に食込む、といった相互貫入の関係が見て取れるのです。その関係を「接地の作法」ととりあえず呼んでみて、いずれはロウハウスの話にとどまらない、都市と建築(とくに日本のように土地の限られている場所の)の関係を、、、おっと、そろそろランディングです。続きはまた。〈TAK〉

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